著者の谷恒生は1981年に『バンコク楽宮ホテル』を出版した。バンコクの猥雑で湿っぽい空気の中で蠢く怪しい日本人滞在者を描いたことで大人気となり、東南アジアを回る日本人バックパッカーのバイブルのような本となった。私もこの本を夢中で読んで楽宮ホテルまで行ったことがある。ただ、あまりの汚さに恐れおののき、もう一つのバックパッカー御用達のジュライホテルに泊まっていた。確か1泊500円ほど。何千人もの貧乏旅行者が寝たであろうベッドは人の形に凹んでいて薄気味悪かった。それでも、それがカッコいいとこの周辺にたむろしている沈没日本人旅行者はみな思い込んでいた。魑魅魍魎が跋扈するバンコクの中華街、さらにその底辺の安宿に多くの若者が吸い込まれていった。
『バンコク楽宮ホテル残照』はその続編。2002年の出版なのでおよそ20年ぶりの復活となる。アメリカで発生した「9・11ワールドトレーディングセンタービルテロ」から話が始まり、アメリカとアフガンとの戦争勃発、それによって軍事的緊張が波及する東南アジアの一角・バンコクに一発狙いのフリージャーナリスト、商売人、詐欺師、ヤクザたちが再び集り始め、主人公はどんどん怪しいコミュニティに引き込まれていく。
紀伊国屋書店HPの著者略歴によると、谷恒生は1945年、東京生まれ。鳥羽商船高校卒後、一等航海士として世界を巡る。その体験を生かした海洋冒険小説『喜望峰』でデビュー、冒険小説の旗手となる。さらに歴史小説『那須与一』『毛利元就』などで注目された。航海士という職業柄、世界中の港に出入りしており海外経験は豊富だ。著書ではバンコクのいかがわしさや暗部がこれでもか、というほど描かれているが、その一方で美しいパタヤも登場する。
「気にせいか、バンコクよりずいぶん明るく感じられる。スモッグがすくないせいかもしれない」「泥味をおびた水色の海が窓いっぱいに広がり、窓から吹き込む風に潮の香が匂う。やはり、圧倒的な解放感である」(82頁)。
しかし、主人公は仲間の不祥事により再びバンコクの暗黒世界へと引き戻す。谷が描いたバンコクはかつて「魔窟」と呼ばれたが、今ではかなり発展し初めて行ったころと比べて格段にキレイになったという印象だ。パタヤも例外ではない。豪華な高層ホテルやコンドミニアムが建ち並び、オシャレなカフェやパブもどんどんオープンしている。以前はパタヤを敬遠していた女性客やファミリー層もずいぶん増えたように見える。ただ、それでも暗部は残っているだろうし我々に見えないだけかもしれない。『バンコク楽宮ホテル残照』で描かれているバンコクは別世界の物語のようだが、かつてのバンコクを少しでも肌で知っている層にとっては懐かしさがあふれ出る傑作なのだ。